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鈴木 實(すずき みのる 1910年(明治43年)4月20日- 2001年(平成13年)10月28日)は、東京麹町生まれの大日本帝国海軍の軍人、実業家。旧海軍時代の最終階級は海軍中佐。本籍は新潟県岩船郡村上本町〔読売新聞 1941年6月14日夕刊2面 「“ふたご隼”敵空を蹂躙 “燃える一中魂”渡部先生の喜び」〕。 == 略歴 == 府立一中時代は陸上競技部と剣道部に所属〔読売新聞 1941年6月14日夕刊2面 「“ふたご隼”敵空を蹂躙 愛機に赤鳩描いて仲よく武勲争い」〕。また、陸上競技部では主将を務めた〔『零戦最後の証言 II』(神立尚紀、光人社、2000年) P32 ~ 〕。同校卒業後一浪して海軍兵学校入校、60期卒。同期には、板谷隆一中佐、進藤三郎少佐〔1940年9月13日、進藤隊は白根斐夫(中尉、第二中隊長)ら13機の零戦を率いて、30機以上の敵中国軍機中27機撃墜の零戦としての初戦果を記録。協同して作戦に当たった14空込みでの数字では、敵中国軍103機撃墜 + 163機地上撃破に対して味方損失3機であった。〕、牧野三郎中佐(真珠湾攻撃時の加賀急降下爆撃隊指揮官にて戦死)、一中の後輩で海兵同期の兼子正少佐など〔中学同窓には他に、同時期に南支方面で活躍し後輩にあたる浅井正雄(海兵63期では同期に黒沢丈夫ら。台南空にて1942年2月19日にスラバヤ攻撃時、上空で米軍機に体当たり攻撃。最終階級は海軍中佐)や、同台南空の笹井醇一少佐らがいた。 朝日新聞 1942年4月17日朝刊3面 などを参照。〕。海兵在学中は、勉学に身が入らず、海兵席次も80番台であった。また一期上から落第していた野中五郎と親しくしていた〔。 1933年、少尉候補生としてアメリカへ。加古、金剛乗組を経て、1934年、第26期飛行学生(霞ヶ浦)。同期に、横山保〔1940年8月19日、横山率いる零戦12機が陸攻隊を直衛して重慶上空に進出したのが零戦の初陣だった。〕(海兵59期)、進藤三郎、兼子正、山下政雄(以上海兵60期)ら。同修了後の1935年、館山航空隊へ戦闘機パイロットとして配属。翌1936年、第一航空戦隊の龍驤乗組み。小園安名指揮の下、九五式艦上戦闘機が主力機であった。 1937年の日中戦争(支那事変)勃発後、一航戦は主に陸戦協力にあたっていた。同年8月22日、龍驤より兼子正指揮の4機が宝山上空でカーチスホーク18機中6機を撃墜し、その翌23日、宝山上空で同じく龍驤より鈴木指揮の4機が哨戒中、カーチスホーク・ボーイングP-26混成27機編隊を発見、鈴木らは無傷で相手9機、鈴木はうち3機撃墜の戦果をあげた〔『日本海軍戦闘機隊 戦歴と航空隊史話』(秦郁彦・伊沢保穂著、大日本絵画、2010年7月10日) P22〕。第三艦隊司令長官の長谷川清より個人感状を授与され〔朝日新聞 1941年5月27日朝刊1面〕、また支那事変における論功行賞では、異例の功四級金鵄章を授与された。これにより海兵席次も80番台から10番台に、のちに少佐進級も同期一番乗りを果たした〔。 1938年6月、海軍大尉に昇進。佐伯空、大分空、鹿島空各分隊長を経て、1941年4月、第十二航空隊分隊長〔『零戦最後の証言 II』(神立尚紀、光人社、2000年) P35 ~ 〕。同時期、12空には兼子正も所属。同年5月26日、11機の零戦で天水飛行場の23機の中国軍機を撃墜〔、嶋田繁太郎支那方面艦隊司令長官から二度目の感状を授与された〔1941年3月14日、横山保大尉は成都への長距離攻撃で敵7機破壊、反撃してきた敵27機を撃墜し、鈴木と共に島田繁太郎支那方面艦隊司令長官より感状を授与された。 朝日新聞 1941年9月6日朝刊1面〕。まもなくして、着陸時の飛行機事故で頚椎損傷の生死をさまよう重傷を負い、首も左に回らなくなった。また、マヒの後遺症は晩年に残った〔『零戦最後の証言 II』(神立尚紀、光人社、2000年) P36 ~ 〕。 真珠湾攻撃時はベッドの中にあった。1942年6月、少佐に昇進。1943年3月から4月にかけて、石川信吾少将指揮の第二十三航空戦隊下、第二〇二海軍航空隊飛行隊長に配属され、戦地に復帰した。主に数次のポート・ダーウィン空襲に携わった(→ 日本のオーストラリア空襲も参照)。202航空隊は鈴木が髭を生やすように指示をしていたため、“ヒゲ部隊”とあだ名され、勇猛・強面部隊として知られていた〔。北アフリカ戦線でドイツ機を20機以上撃墜し勇名を馳せた中佐指揮、スピットファイア3個飛行隊100機を想定して、450カイリの海上航法、編隊空戦法の向上など猛訓練に明け暮れていた〔『日本海軍戦闘機隊 戦歴と航空隊史話』(秦郁彦・伊沢保穂著、大日本絵画、2010年7月10日) P186〕。同年5月2日、一式陸攻25機と鈴木指揮の直掩零戦27機によるポートダーウィン空襲の帰路、スピットファイア33機と遭遇、味方損失無しで相手13機を撃墜した。同航空隊、なかでも鈴木指揮の下では、合計味方損失1機に対して、相手スピットファイア34機の戦果と、コールドウェル指揮のスピットファイヤー相手に圧倒的勝利を収めた。南東太平洋方面で零戦の力に翳りが見えていたのに対して、南西方面でのこの活躍は海軍航空史に特筆されるべきものとされている〔「栄光のポート・ダーウィン」『日本海軍戦闘機隊 戦歴と航空隊史話』(秦郁彦・伊沢保穂著、大日本絵画、2010年7月10日) P72 ~ P73〕〔蛇足として、1943年半ば頃、202空の慰問に女優の森光子らが部隊を訪れた。 『日本海軍戦闘機隊 戦歴と航空隊史話』(秦郁彦・伊沢保穂著、大日本絵画、2010年7月10日) P187〕。 1944年2月から7月にかけて、テニアン、トラック諸島、グァム、ヤップ、ペリリュー、ワシレ、ソロン、ダバオと各地を転進。同年10月から、館山空、茂原空、神ノ池空、谷田部空と転進〔『零戦最後の証言 II』(神立尚紀、光人社、2000年) P44 ~〕。1945年2月、二〇一空副長兼飛行長(台湾で二〇五空に改編)に着任し、玉井浅一らと共に主に神風特攻隊を送り出す立場となった。同年8月に中佐進級。魁作戦中止もあり、同年12月31日台湾より帰国。 1948年、キングレコードに入社し、1954年大阪支店長、1960年に営業本部長、その後は1978年まで取締役営業本部長兼洋楽本部長と歴任。音楽については詳しくなく興味もなかったが、大阪時代に大月みやこを見出し、カーペンターズやセルジオ・メンデス、リカルド・サントス、レイモン・ルフェーブルなどを手掛けることとなり、昭和50年代のFM東京「ジェットストリーム」などでのムード音楽(イージーリスニング)の仕掛け人の一人だとされている〔『零戦最後の証言 II』(神立尚紀、光人社、2000年) P51 ~ P52〕。2001年(平成13年)10月28日死去。「葬式一切不用」の遺言と、孫娘に「遺灰はアラフラ海に捲いてくれ」との言葉を残している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木實 (海軍軍人)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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